美大に入ってすぐ、「このままデッサンをやって西洋のマネをしても世界に打ち出せる作品はできないな」と思った。明治以降に日本に”ART”という言葉が入って来て追いつけ追い越せの時代があり、しかし幸運にも僕は大学で具体美術協会 (GUTAI) に出会った。GUTAIは人のマネをするな、が信条だったので、自分が取り組むべきテーマに向き合うべく毎晩歩き瞑想をして朝まで行(ぎょう)のように過ごした。
日本固有の美というものを遡って串刺しにできるくらい根の深い強いモノが必要だ、それは何か。中高と吹奏楽部で打楽器を本気で打ち込んで来て、その道に進むと周囲に思われていた自分が手にしたのは、津軽三味線だった。
日本人のスピリットは伝統的な民衆のものに宿る。そう直感したからかもしれないが、その根底に横たわるものを音楽のノリから探り、民族・神事芸能に興味を持ち三味線を片手に国内の山間部を渡り歩いた。
海と山に囲まれ自然の厳しさに翻弄されて来た日本人は、その人間には及ばない大いなる力を持つ存在へ畏怖の念を抱き、祈りや感謝をささげるために唄や舞、踊り、祭礼儀式や行事ごとを執り行って来た。その中に素朴な自然美、永遠に姿を留めることはなく散りゆく美しさ、つまり「滅びの美学」であったり、用の美というものを醸造していったのだと感じた。
そうした美と醜、若と老、善と悪、清濁合わせ飲むような全体性、すべてを白黒つけずグレーにしてまるめてしまうような一体性は日本固有の美意識の現れであり、それは人間界のルールを超えたところにある「霊性」の計らいを潔く受け入れ、享受していると感じる。
自然は宇宙の写し鏡である。
雑草という名前の草はない。すべてに名前と与えられた役割がある。全体性の美学。
アジアのノーベル賞と言われるマグサイサイ賞を受賞した福岡正信氏の粘土団子の発想にも「ヤオヨロズの神」を感じるのである。
日本の霊性文化を現代美術で表現したいという僕の欲求の根っこは、その探求に費やした20年の間にどんどん深く広く張って伸びていき、絵画や立体にとどまらず音楽や写真、映像やインスタレーション、神楽などという枝葉や花の色々な様態となって現れていった。
日本のアニメやゲームの創造性もこうしたヤオヨロズに宿る神々を感知し、各々が醸造する霊性の発露から来るのではないだろうか。日本の山や森や水辺に宿る「スピリット」を僕は津軽三味線奉納演奏で体感し、その土や水を使って作品におこして行った。
万物の奥にあるものをリスペクトする心、それが僕の作品の源泉であり、日本が世界に打ち出せる強みであると思い制作している。
筆録 Liz HAZE