Ritual

美術大学卒業後、私は三味線を持って日本各地の山々・神社仏閣にて奉納演奏をし、日本古来の神話や民話を自分なりに解釈するために、深い自然の中に漂う何らかの存在を感じながら形にする活動を行ってきた。

私は美しいものを創り出し世界の人たちと分かち合いたいと思い美術大学に入り、美術と哲学と宗教の関係性について悩み何時間も歩く日々を過ごした。更に日本人のアイデンティティとは何かを追求するために三味線を習い始め角付のようなことをストリートパフォーマンスとして行い、その後更に深い境地を求めて山へ入るようになった。良い芸術は人生と一体となった作品にこそ宿るという信念から、答えが見つかるまでとことん追求するというスタイルは自分にとっては至極当然のコトであった。

私の作品には日本の神話・民話からのモチーフ(しめ縄・御守・依り代・鬼・おしら様等)を使うことが多いが、私は特定の宗教を持たない。日本人としてのリアリティがそこに宿っているからそうしている。人が心の奥底に持つであろう信心、祈り、畏怖の念のようなものを表現したいと思っている。

昨年2014年に行われたフランス(Paris/Carcassonne)の展示会では「西洋の神はいなくなり、代わりにお金を崇めるようになった。でも、お金よりも確かな、心の拠り所が欲しいと感じている。今でも日本人には信心、リスペクトの心があるように思う。それを作品に感じる」というような感想がよく聞かれた。西洋は無形物、説明のつかない事象を徹底的に排除した結果とも思った。ヨーロッパにも神話民話の勿論あり伝えられているが、その伝わり方や現代の人々への影響の及び方は全く異なるという印象を持った。

しかし、それでもなお人種を超えて、人には無意識の部分で何等かの超越した存在や事象を信じる力と持っているように思う。特に危機的状況にはそれは顕著に表れる。私たち日本人がそうした感覚に馴染み深いと感じるのは、先祖崇拝やアニミズム的態度が日常生活に溶け込んでいるからだろうか。

先の「心の拠り所が欲しい」という声は、地震やテロ、経済的不安定…先の見えない時代を反映した、現代の人類共通の心の叫びなのかもしれない。いつの時代もそうだと思うが、この世自体が不確かなもので、確かだと思ってきたこと自体が幻なのだろう。それでも、いつも何かを「在るもの」と認識して、確かなものと信じることで皆行きている。それは有史以来、変わらない営みだと思う。

というのも、この世は人の認識、意識によって捉えられてはじめて成立する。
共通認識、集合意識、常識…それらを超えた超個人的な意識。

この意識を私は「シキ」と呼んでいるが、私の活動はこの「シキ」というのが一つのキーワードになっている。「シキ」は国や時代によって容易に変化する。意識の領域は可変である。

ARTは、「シキ」を強めたり揺るぎを与えたりするデバイスのようなものと感じる。実際、ARTは「術」とも訳される。言い方を変えると、見るものの意識を「見る前」と「見た後」で変容させる儀式(Ritual)のようなものだ。そういったデバイスを、時代を超えるものを多く残したい。特にサイズの大きいものに挑戦していきたい。